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株式会社SHIFT

 
新卒で年間2億円稼ぐコンサルタントに

 

質問:御社の事業内容から教えていただけますか。

丹下:はい。弊社は業務改善コンサルティング、システム開発、システムテストを行っております。ただ、一般的な業種なのですが、その他にポルレンやマイフなど面白い事業を手掛けています。もともと、私が変わった業種のコンサルタントだったので、そこからお話させて下さい。前職は、インクスという携帯電話の金型の世界シェア6割くらいの会社で働いていました。

質問:凄いシェアの会社ですね。ところで金型とは何ですか?

丹下:はい、金型というのは、大量にものを作る時に必要なもので、タイ焼きの型みたいなものです。私は理系の大学を卒業して、2000年に新卒でその会社に就職しました。その会社の凄いところは、従来携帯電話の金型を作るのに2ヶ月ほどかかっていたのですが、そこは自社工場で2日で作ってしまったというくらい物凄い短納期でものを作るのが得意な会社でした。

質問:へー、それはすごいですね。そんな事があるんですね。

丹下:そうですね。携帯電話というのは、ご存じのように発売して1か月くらいで、数10万台売れて、そのあとは、そんなに売れなくなります。ライフサイクルの短い商品なんですね。つまり、コスト削減よりも、いかに早く市場に投入して、高い時期に売るかという納期が重要になってきます。前職のインクスという会社では「Speed is Money」という商売をしており、2日で金型ができてしまうという事自体、製造業の中では画期的でした。ですから、キャノンやトヨタのような大手メーカーが、こぞってコンサルティングをして下さいと依頼が殺到していましたね。

質問:なるほど、その時期に入社されたんですね。

丹下:はい、ちょうど2000年当時、まだ新卒だった私が、100人位のベンチャーに入社し、コンサルティング部隊もたった3名しかいませんでした。なにせ、その会社はもともとメーカーだったわけですから、コンサルティングのコの字も知りませんでした。

質問:そうですか。それでは結構苦労されたんではないですか?

丹下:はい。正直めちゃくちゃ苦労しました。当時のプロジェクトは25人位の役員以下マネージャーの方々のあつまりで、1番若いのが自分でした。なので、その人達のスケジュール管理やら、ホテルの手配、飛行機や新幹線の手配など、25人すべてやっていました。また、更に2つほどコンサルティングをかけもちしていましたので、静岡と富山と東京を毎週往復しながら仕事をしていましたね。

たった3人の部署が5年で140人、50億円の部署へ

質問:御社の事業モデルの話とは少し違っていますが、その後のキャリアというのはどうだったんですか?

 

★ Dreamerのプロフィール
出身地 広島県
生年月日 1974年9月22日
学歴 京都大学大学院(工学研究科機械物理工学専攻)
略歴 1974年9月 広島県に生まれる
2000年3月 京都大学工学研究科
機会物理工学専攻卒業
2000年4月 株式会社インクス入社
入社後、3名のコンサルティング部に配属5年で売上50億円、140名のコンサルティング部隊にまで立ち上げた。期間短縮手法「プロセステクノロジー」で特許取得。インクス成功の秘訣を書いた「インクス流」本執筆。
2005年7月 コンサルティング部門マネージャーを経て退職
2005年9月 渋谷区に株式会社SHIFT設立
趣味 ドライブ、サッカー、映画鑑賞、ゴルフ
その他
 

 
☆ 会社概要
企業理念 「楽しくなきゃ人生じゃない。会社は人生を楽しむための手段である」をモットーに、人の営みを圧縮し、本来人間が欲する「楽しい、嬉しい、驚き、喜び」に対する価値を創造する。
社名 株式会社SHIFT
代表者 丹下 大
設立 2005年9月7日
住所 東京都港区麻布台1-9-14 ランドコム麻布台ビル9階
TEL 03-6805-0858
FAX 03-6805-0859
URL http://www.shiftinc.jp
 
丹下:そうですね。その当時は、3DCADと呼ばれる3次元の図面をコンピューターで支援しながら書くという設計ツールがもてはやされていました。入社当時、私も3DCADが出来ないと社員じゃないと常々言われていました。ただ、人が創ったソフトを使ってユーザーとして仕事をするということに違和感を感じており、自分で何か生み出したいと思っていました。私は、その納期を短縮するような業務に携わったのですが、それがエクセルとパワーポイントしか使わない、雑務のような仕事だったんですね。だから誰もやらない。私はそこまで大きな才能はないけど、この雑務を誰よりも上手に出来れば、必ず何かスキルが身に付くと信じて毎日朝4時まで働いていました。

 

質問:本流とは違う仕事で、寂しくはなかったですか?

丹下:そりゃ、いつか見返してやるという気持ちが強かったです。でも信じるしかないですよね。で、とある時に、何枚も何枚もそのタイムチャートというスケジュールみたいなものを書いていると、共通性が見えてきたんです。納期を短縮するにはまずはスケジュールを書かないとだめですからね。そこで、はって気づいたんですね。インプットとアウトプットがあって、その間にプロセスがあると。そのインプットとアウトプットをマトリックスにしてみると、並行してできる部分と順番を入れ替えて早くなる部分があると。それを、当時誰もやったことがなかったエクセルマクロというエクセルの自動化ツールで、システム化したんですね。それが、面白いように再現性のある技術になって、一気に社内では有名な人になりました。

質問:よかったですね。ひらめきですね。

丹下:もうやるしかなかったですから。それが、結構好評で、プロセステクノロジーと称して、特許を取ったんですよ。それが業

界では爆発的に受けて、日産さんとかからは、もう凄いテクノロジーだってほめられましたね。それで、もうあれよあれよという間に、たった3人のコンサルティング部門が5年で140人、50億円くらいの規模にまでなりましたね。

 

小学校6年生で社長になると決意

質問:そんな順調な人生なのに、なぜ独立されたんですか?

丹下:僕は小学校6年生の時に、社長になると決めていたんです。思い返せば小学校4年生の時に、母親から「大は将来どうやってご飯を食べていくの?」って聞かれたんです。その時、まだまだ親にご飯を食べさせてもらって生きるんだと思っていた僕にとって、もの凄いショックな一言でした。で、私は野球をやっていたものですから、「じゃあ、プロ野球選手になって、お母さんに3000万円の指輪を買ってあげる。お父さんはミニクーパーだね」って言ったんです。私は広島出身だったのですが、当時、カープの4番打者の山本浩二が年俸8000万円だったので、出来ると思ったんですね。

質問:ませてますねー。

丹下:そうですね、笑。ただ、小学校6年時に、市の大会で、14対2で負けたんですよ。非常にショックでした。この程度の大会で負けるのは、才能がないなと思いました。よくよく考えてみたら、1億2千万人いて、12球団しかないので、たった100人程度のプロ野球選手に自分がなれるわけないと。日本で1番多く働いていそうなのは、サラリーマンだから、そのトップの社長だったら僕にでもなれるかもと思っていました。それで、小学校6年の時に、社長になろうと思いました。

丹下:当時数学が得意だったので、ロボットを作って、寝たきりのお祖母ちゃんの介護をするサービスをしようと思っていました。その為に理系の大学に行って、就職も多くの経験を短期間につめるコンサルティング会社で働きました。

 

質問:話は戻りますが、なぜ30歳で会社を作られたんですか?

丹下:社長になるためには、3つの能力がないとダメだと思ったんです。1つ目は、自分でお金を稼ぐことができること、2つ目が、部下をマネージメントすることができること、3つ目が、営業したり会社の数字を見ることができること。前職ではそのうち1つ目と2つ目を身につけました。特段ビジネスモデルがあったわけじゃないのですが、3つ目を長い会社人生の中で学ぶのか、自分の会社を経営しながら学ぶのかという選択肢の中で、若い30歳じゃないとできないと思って、30歳を機にSHIFTという会社を創りました。

140人のトップコンサルタントから1人の創業者へ

質問:SHIFTを設立されたときはどのようなビジネスモデルだったんですか?

丹下:正直、ビジネスモデルなんてなかったです。単に新しいことをやりたいとかCEOという役職を名刺につけたいとか、そんな安易な理由です、笑。なので、最初の1か月くらいは、本当に家でインターネットばっかりやっていました。英会話を始めてみたり、ネット証券の口座を開設してみたり、日経新聞の記事をスクラップしてみたり、笑。

質問:起業当初の苦労がうかがえますね。

 

丹下:まあ、そりゃ一からですから、物凄く苦労しました。営業したことなかったですからね。それで、1億2千万人いても、SHIFTという会社のことを知っている人は、僕と両親くらいなんですよ。だから、とにかくプロモーションしようと思いましたね。なので、あらゆる助成金関連には応募しましたし、起業家オーディションには応募しました。それが、運よく川崎の起業家オーディションと横浜の起業家オーディションの選考に、あれよあれよという間に残りまして、どちらも1位がもらえたんです。

質問:マネーの虎みたいですね。

丹下:そこまでではないですが、VCや銀行、財団、有名企業の社長など、そうそうたるメンバーの前でプレゼンするわけですから、結構面白かったですね。もともとコンサルタントなので、プレゼンには自信を持っていました、笑。それと並行して、

人口知能財団というところからも助成金を頂くようになったんです。50万円の助成金でしたが、自分の個人の通帳に振り込まれたときは、本当に感動しましたね。会社って、こういうものなんだーって。

 

ブランドを創るという仕事

質問:出来てまだ3年ほどですが、どのように成長しているのですか?

丹下:丸1年は、たった1人で仕事をしていました。寂しかったですね。ただ、1年もするとそこそこ仕事が続くようになって来まして、それから1人、2人と増やしてきました。2年目で5人、5年目で20人と、一気に増やしましたね。弊社は、コンサルティングが4割、システム開発で2割、システムテストで2割の売り上げです。コンサルティングは、もともとメーカー以外のコンサルティングがやりたいと思っていましたので、物流や施工、コールセンター、システムテストと、様々な業種でやらせて頂いています。

質問:なるほど。その他の業務は如何ですか?

丹下:コンサルティングをやっていると、ちょっとシステム的な開発も頼まれることが多く、一連のサービスで開発をやっています。それと、システムテストは、大手インターネットショッピングモールのコンサルティングをやらせて頂いた関係上、テストの請負もやるようになりました。ショッピングモール、ポータルサイト、コミュニティー、銀行、証券、なんでもやっています。

質問:御社のどこに強みがあるんですか?

丹下:弊社は、もともと業務改善系では、結構優秀なコンサルタントを抱えており、大手コンサルティングファームの下請けもやらせて頂いています。そこでは、プロジェクトリーダーとして入らせて頂いていることもあり、仕事は継続的に頂けますね。また、システムテストは、もともと優秀なコンサルタントをテスト設計要員として派遣しておりますので、品質の良いテスト設計ができるというのが強みです。テスト業界というのは、様々な条件でのテストを想定して、テスト設計しないといけないのですが、それが出来る人間というのは少ないんですね。我々は単なるテスト業者というよりは、コンサルティングから入っていますので、仕組みを創れるテスト業者という感じですね。

 

質問:なるほど、単なるシステムテストではないんですね。

丹下:そうです。BtoBであれ、BtoCであれサービスを提供している会社は、やはりサイトのイメージというのが重要なんです。その会社のポリシーというものが。例えば、色はこの色とか、ボタンのサイズなり配置なり、ユーザーの導線なり、その会社ごとの基準が当然あります。でも、開発が忙しくて、そのような基準はなく、都度考えて、作っています。我々は、テストをしながらその会社の基準を創ってしまうことをサービスとしてやっています。三権分立と呼んでいます。立法として基準を作り、開発(行政)はその基準に従って作る、そしてテストはその基準に従ってチェックするだけです。基準がないと何もできません。テストというとバグだしというイメージがありますが、我々は、その会社が提供するサービスのブランディングをチェックするというイメージを持っています。我々が最後の砦なんですね。

週末難民を救うサービス

 

質問:他にもいろいろとサービスをやられているようですが

丹下:はい。今はポルシェのレンタカー「ポルレン」と携帯での位置情報付きブログサービス「mife」を行っています。mifeは、リアルタイムに携帯電話で画像とコメントをマップ上に残せるサービスです。例えば、箱根にドライブ行ったり、ディズニーランドに遊びに行った時に、リアルタイムに思い出を地図上に残してほしいと思っています。もともとは、「週末難民」や「ランチ難民」を救いたいというのが発端です。自分もそうなんですが、仕事を一生懸命していて、お昼休みくらい、本当にいいお店で美味しいごはんを食べたいと思うんですよね。それが、他人の口コミじゃなく、本当に仲の良い友人の紹介であれば、行きますよね。そういった、よりリアルな口コミサービスをやりたかったんです。それに、土日も、結局ウィンドウショッピングをして終わっているのがもったいなくて、もっと良いお店とか近くのイベント、近くの演劇なり映画を紹介して欲しかった。僕を含め週末難民を救おうと、笑。なので、mifeは単なるコミュニケーションサービスというよりは、近くの興業チケットや旅行プランを売るようなECサイトにしようと思っています。mifeは思い出を残すサービスなんですが、そのプロモーション用に、思い出を残すための移動手段を貸してしまおうと、また社員の福利厚生にもなるということで、始めたのがポルレンです。携帯電話の機能が発達し、今やお財布もあり、GPSもあり、画像や動画もあるという中で、リアルな場所とバーチャルなインターネットを縦横無尽に行き来できるようになってきたんですね。だから、我々のようなサービスがECとして成り立つようになると、新しい商業圏が出来るんですね。そこが本当に面白いです。

キャラクター採用が世の中を変える

 

質問:なるほど。これで充実した週末が過ごせるようになると良いですね。

丹下:はい。今はそこまでの機能には至っていないですが、私は世の中のすべての人に人生を楽しんでもらいたいと思っています。我々は、語弊がありますが「キャラ採」という採用手法をとっています。1人1人が持っている才能を磨きあげ、際立たせてきた人間を採用するというコンセプトです。たとえば、リーダーシップに特化した人間、管理に優れた人間、元モデル、元音楽プロデューサー、文章を書くのがやたらうまい人間、プレゼンに非常に長けた人間、コンピューターの言語を3日で覚える人間、人の技術をすぐに吸収してしまう人間など、本当に多様な人間をそろえています。人間、もっとも得意な分野で勝負しないと勝てないんですね。だからその人個人が持っている1番得意な分野で勝負して、SHIFTというチームで勝とうと思っています。

質問:そういえば、面白い理念をお持ちだと伺っています。

丹下:はい。弊社では、「楽しくなきゃ人生じゃない。仕事は人生を楽しむための手段だ」という理念を掲げています。この言葉にひかれて入社してくれた人もたくさんいます。また、社員だけでなく、弊社がサービスを提供するすべての企業様に、人生の楽しみを提供しています。たとえば、業務改善コンサルティングを通じて、仕事を効率的に進めるノウハウをご提供することで、その結果として生まれる”ゆとり”でお客様を・・・ひいては世の中の人に、人生を楽しんでいただきたいと思っているんです。もちろん、コンサルティングだけでなく、システムテスト事業やサ

ービス事業など幅広く展開することで、ユーザーニーズや生活シーンに合わせて、”喜び”や”楽しみ”を創造したいと思っています。つまり、クライアントに目には見えない”付加価値”を提供できる会社でありたいですね。

 

富の再分配という概念から、新しい価値へ

質問:それでは、会社としての夢を聞かせていただけますでしょうか。

丹下:はい。弊社では、先ほど少し話に触れましたが、「キャラ採」という採用方法を用いています。この採用方法によって他社と個対個では負けることのない本当に優秀な人材を集めることができました。この優秀な頭脳集団の知を再分配していきます。

質問:知の再分配ですか?

丹下:そうです。政府は国民から税金を集めて、公共の福祉に金を注いでいますよね。これを富の再分配と僕は呼んでいるのですが、それと同じように、優秀な人材を集め、彼らの知を日本中の人々が満足するようなサービスに変えていく。もともと持って生まれた才能を世の中の為に使おうと。あなたのその才能は個人のものじゃなく、みんなのものであると。だから、私は知の再分配という言い方をしています。これからはいかに人生に

付加価値を与え、楽しんで生きていけるかということに重点が”SHIFT”していく時代です。今ある価値を圧縮し、より付加価値の高い事業へシフトする。実は、当社の社名である「SHIFT」もそんな時代の転換を牽引していきたい、という思いを込めて名付けています。これがSHIFTのコーポレートロジックです。

 

質問:その知の再分配を表象したものが、御社が続々とやっていらっしゃるビジネスモデルというわけですね。

丹下:そうです。mife、ポルレン、ドリマガ、これから温めているビジネスもありますが、全て「知を再分配」し、人々に楽しんで生きていただけるように、という思いで創りだしたものです。「人々に楽しみを提供し、新しい経済圏を創造する」ということが、会社としての大きな夢ですね。

質問:わかりました。それでは、社長の夢も聞かせていただけますか。

丹下:会社の夢と同じなのですが、強いて言うのであれば、ビジネスモデルを考えるクリエーターとして「情熱大陸に出る」ですかね(笑)

質問:(笑)わかりました。本日はありがとうございました。

丹下:こちらこそありがとうございました。

 ドリマガとは、「ドリームマガジン」の略です。起業家・アスリートに出演して頂き、熱い夢を応援するウェブマガジンです。毎週、様々な起業家・アスリートに出演して頂き、熱い夢を皆さんにお届けするメディアです。きっかけは、2007年9月に新潟県三条市で設立された日本初の航空機メーカー、「ATRヤマト」を応援することでした。あまりにも壮大な夢にチャレンジする起業家を見て、夢のある企業を紹介し、沢山の人に見てもらう事でお金じゃない応援(投資)をしてもらおうと考えました。ドリマガという媒体で知り合った社長様同志で、20年後には昔話のように思い出を語れるようになっていたいですね。