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起業家の熱い夢を応援するウェブマガジン「ドリマガ」

ラリードライバー

篠塚建次郎氏。東海大学卒業後、三菱自動車にファクトリードライバーとして入社。パリ・ダカールラリーを始め、数々のレースに出場し、圧倒的な成績を収めてきた方である。
子供の頃、「世界なるほど・ザ・ワールド」でひょうきんな女性レポーターが毎年、ラリードライバーの篠塚さんを応援していた。TVを通じて、とても印象に残っている人が目の前にいる。今年還暦を迎えた彼はいったいどんな夢を語ってくれるのだろう。
 

天才ラリードライバー篠塚建次郎誕生!

丹下:ラリーに出会ったのはおいくつの時なんですか?

篠塚:18歳ですね。

丹下:きっかけはなんだったんですか?

篠塚:学校に行く途中でね、バスの中で友達に「今度ラリー出るんだけど出ない?」って言われて、「ラリーって何?」と返すと、「ドライバーとナビゲーターが2人1組で走るんだ。日本のラリーは大体土曜日の夜に出発して、300キロか400キロ走って、日曜日の朝にゴールするんだよ」と。当時の日本のラリーっていうのはそんなにスピードを競うっていう感じじゃなくて、A地点からB地点までに行く正確さを競うものだったんです。なんだか分からないけど出てみるかということで、僕は最初ナビゲーターとして乗りました。富士五湖の方に行ったんだけど、その時に車が横にスライドするっていうのを初めて体験して、ビックリしちゃって、今、思えば、そのドライバーの友達の腕は大したことないんだけど、まあまあコントロールしててね、これは面白いなと思いました。衝撃的でしたね。一発でやみつきになっちゃって、それから学校にも行かず金貯めては仲間と出るっていう学生生活でした。自分としてはドライバーやりたいんだけど、お金なくて車を持ってなかったけど、その誘ってくれた友達が医者の息子で金持ちだったわけですよ。あの当時は金持ちじゃないと車なんて持てなかったですから、友達と夜に山に行って、貸してもらうんです。だからそれから友達と出るときは、友達がドライバーやるって時はしょうがないからナビゲーターやって、どっちでもいいよなんて時にはドライバーやらせてもらったりっていう生活が2年くらい続きました。

丹下:友達がきっかけだったわけですね。

篠塚:そうです。そうしたら、たまたま三菱の人と親しくなって、来年からやってみるかって言われました。ファクトリーの車に乗るのは夢ですからね。お願いしますっていったのが大学3年の時ですね。三菱の車に乗るようになってから、国内では連戦連勝でしたね。

★ Dreamerのプロフィール
出身地 東京都大田区
生年月日 1948年11月20日
学歴 東海大学工学部卒
略歴 1970年から三菱ファクトリードライバーとして参戦。
1971、72年と全日本ラリー選手権で2年連続シリーズチャンピオンを果たす。
1991・1992年とアイボリーコーストラリー(WRC)において、日本人初の総合優勝。
1997年パリ~ダカールラリーにおいて、日本人初の総合優勝を成し遂げる。
2006年のダカール・ラリーを最後に一度は引退を決意するが、生涯現役ドライバーとして走り続ける道を選択。

趣味
その他 2008年10月南アフリカ・ソーラーカー・チャレンジで母校東海大学の学生とともに出場、総合優勝を果たす

☆ 会社概要
企業理念
社名 ラリードライバー
代表者 篠塚 健次郎
設立
住所
TEL
FAX
URL http://www.shinoken.net/
「8年間」という空白
  時代に翻弄されたドライバー人生


丹下:パリ・ダカに参加されたきっかけは何だったんですか?

篠塚:ずっと国内でやってたんですけど、1973年に第一次オイルショックがありました。それまでガソリンが55円くらいだったのが、80円とか90円になっちゃったんですよ。それで、「ガソリンをばら撒くモータースポーツなんてけしからん」みたいなのが新聞にいっぱい出てきちゃって。自動車メーカーは、そういうのに敏感ですから、みんな手を引いちゃったわけですよ。でも海外のラリーだけは続けようって三菱も思ったみたいで、77年までやっていました。今度は排ガス規制法がでてきたんです。まず米国でマスキー法っていうのができて、それを右へ倣う形で日本版マスキー法ができて、何年までに二酸化炭素が何%じゃなきゃだめということになりました。その法律ができて、三菱も他のメーカーも皆止めちゃったんですよ。で、僕も走る場所を失って、1978年から1985年までの8年間は全くモータースポーツなしの8年間でした。

丹下:その間はテストドライバーみたいなことですか?

篠塚:仕事で車に乗ることは全くなかったですね。普通のサラリーマンです。

丹下:どんな仕事をされてたんですか?

篠塚:販促関係です。カタログも作ったし、展示会なんかも企画しました。スペシャル車も作ったし。スペシャル車っていうのは(カーアクセサリーや装備など)色々なものくっついてるけど安いよみたいな車です。販促の一通りのことは経験しました。


丹下:その8年間のブランクの中で、自分がやりたい仕事とは違うセールスプロモーションをしていて、モチベーションをどうやって維持されていたのでしょうか?

篠塚:僕はね、自動車メーカーにとってモータースポーツは絶対に必要だと思っていて、いつか必ずまたやるはずだと信じていました。

丹下:いつかまた必ずチャンスは来ると思っていた訳ですね。

篠塚:最初から8年間待ってろって言われた訳じゃなくてね。年末になると「来年はできるかな」なんて思いながら8年間過ぎていきました。年齢的にも27でやめて35ですから、ドライバーとしては脂が乗った一番いいときですよ。「もうダメかな」とか思ったりして、けっこう辛くはありました。


丹下:今のサラリーマンの方たちって100%やりたい仕事を与えられているわけじゃないと思うんですよね。でも、やりたいことがあって、今は違う仕事をしててもそこに兆しを見い出しているって重要だと思うんですよね。

篠塚:8年間我慢していたんですけど、その間サラリーマンに集中できたことも面白くてよかったかななんて思いますけどね。

丹下:究極のポジティブシンキングですね。


あのパリ・ダカで、ドライバー篠塚建次郎 復活

丹下:それで8年後、35歳の時に復活を遂げたと。
篠塚:1986年にパリ・ダカで復帰しました。その前に1982年にパジェロを出したんですけど、なんで作ったかというと三菱はジープを作ろうとしてたんですね。アメリカのGSジープのライセンスを借りて日本で販売してたんですよ。ライセンスが切れちゃうから後継の車を作らなきゃいけないっていうので、パジェロを開発したんです。でもパジェロはそんなに売れる車ではなかったですね。ジープなんて月に何十台しか売れてなかったし、パジェロも2~300台くらいしか売れてなかったんです。広告にかけるお金もなかったので、何かないかなって
いうことで、開発の人がパリ・ダカっていうアフリカでやるレースがあるよって聞きつけてきて、会社としては1983年からパリ・ダカに出だしたんです。フランスの販売会社で開発して、外国人が運転をしました。

丹下:その時はまだドライバーとして出てはいなかったんですね。

篠塚:はい。83年が10位だったかな。84年が3位。そして、85年に優勝したんです。優勝はしたんですが、遠い外国で外国人が走ったということで日本では全く話題にならなかった。ヨーロッパではそこそこ話題になったんだけど、やっぱり日本人が乗らないと話題にならないよねっていう話になって。

丹下:そこで篠塚さんの登場ですね?

篠塚:そう。誰かいないかなという時に、腕は錆付いてるかもしれないけど篠塚がいるじゃないかと。86年にちょっとやってみようってなりました。でも、それまで走ってきたレースとパリ・ダカって違うんですよ。パリ・ダカはマラソンタイプなので。ちょっと違うんだけどまあいいかと思って。
篠塚:完走だけすればいいから、ちょっとパリ・ダカを経験してらっしゃいよということで、86年に初めて走ったんです。完走だけして、87年に「どうする?」って言われて、「出たいんだけど、あの遅い車だけは勘弁してくれ、競争に加わりたい」みたいなことを言ったら「よし分かった」ということで、競争できるクラスの車をあてがってくれました。外国人が前の年に乗った中古の車を直して87年に走ったら、総合3位になったんですよ。それがけっこう日本で話題になりました。

丹下:その頃からテレビにも出てきたんですね。

篠塚:その頃、日本も豊かになってきていて、「日本人ももう少し遊びを覚えなきゃ」みたいな国の政策もあって、NHKがスポーツを取り上げようということになって、海外では有名なんだけど、日本では誰も知らないっていうレースを3つ挙げたんですね。まずはアメリカズカップ、ヨットね。ツールドフランス、それからパリ・ダカね。そんな企画の中で、日本では20日間くらいのレースで「昨日は1位でした」「今日は3位でした」とか毎日放送してくれた訳ですよ。今までモータースポーツをニュースで扱うなんてことはなかったので、すごく画期的なことだったんです。「篠塚」「パジェロ」「パリ・ダカ」ってずっと言ってくれていたおかげで、僕の知名度も上がったし、パジェロの知名度もすごく上がりました。NHKが放送してくれたおかげで、パジェロの売上が10倍くらいになっちゃったんです。月に2~3000台くらい売れました。

丹下:10倍の売上はすごいですね。

篠塚:テレビCMやって何台売れるかなんて誰にも分からないじゃないですか。それで、パリ・ダカしかないってことになって、初めて日本のメーカーの中でモータースポーツが販売の役に立つと認めてくれた例じゃないですかね。世界ではアウディクアトロがそうなんですよ。


篠塚:アウディがクアトロでラリーやって、で今の先進的なイメージを作ったっていうのがあって、あとはプジョーもそうですね。プジョー205っていうのがラリーで連戦連勝してね。その3つくらいじゃないですか、世界で爆発的に売れたっていうのは。レースが社会的な地位を得たというか。で、88年には総合2位だったんです。それで、ますます加速しちゃって次は優勝だねなんて話になりました。

丹下:絶好調といった感じですね。


3回の大きな事故
優勝したいという想いの強さ


篠塚:だけどそううまくはいかなくて、91年に僕は一回目の大事故を起こすんです。


篠塚:150キロくらいでジャンプしてフロントから着地して、僕は怪我をしなかったんですけど、ナビゲーターが怪我をしてそこでリタイアしました。91年パジェロが初めてモデルチェンジしたんです。1月がパリ・ダカなんですけど、そのすぐ後の3月にフルモデルチェンジした車を発売するっていう予定になっていて、僕も関わっていて、ニューモデルの車が売れるように「何が何でも優勝する」っていう思いが強すぎたんですね。砂漠を走るってコースがわからないところを走っていくんですよね、ぶっつけ本番で行く訳ですから、で気合を入れていくと見えないところでもアクセルを踏んでいくわけですよ。そうすると、ものすごいタイムが稼げるんですね。その時のその人の精神状態だとかが、成績にかなり結びつくんですよ。実はその大事故の後、車は売れたんです。パジェロは150キロでひっくり返っても怪我をしないみたいなね。それはそれでよかったのかなぁなんて。

丹下:複雑な気持ちですが、結果オーライですね。笑。
篠塚:2000年にね、2代目パジェロから3代目パジェロに変わったんです。2回目の事故を起こして、ナビゲーターが背骨を骨折しちゃって、僕も結構な怪我をしてリタイアしました。

丹下:なるほど。やっぱりいい成績をとることによって車を売りたいという意識が強かったのでしょうか。

篠塚:その意識は強かったですね。2002年に三菱を辞めました。日産がちょうどダカールラリーをやろうとしていて、2003年は日産で走りました。それでやっぱり気合が入りすぎて転倒してしまったんですね。今まで色々な失敗はしてきたけど、その3回の事故はかなり大きな失敗でした。

丹下:やはりリスクをとらなければならない時があるということでしょうか?

篠塚:僕も危ないことはしたくないんですけどね、行くしかないんだっていうことがあるんです。これはそういう立場に立たされないとやらないですね人間は。冷静にどっちにしようかという時には人間やらないですよ。行くしかないんだっていう時にね、それは練習じゃダメで、本番じゃないとダメなんですよ。本番で「やるしかないんだ」っていうところに追い込まれたときに人間はやりますね。そういう経験をどれくらいしてるかということは大切なことだと思います。


若い人が経験も無いのに考えてもダメ、失敗することは別にどうってことないでしょ

丹下:若い人達に伝えたい言葉というとなんでしょうか?
篠塚:僕も今生きてるからこんなこと言えるんだけど、今の若い人に言えることは、人生でやって失敗することは別にどうってことないでしょ。ってことなんです。考えてても答えは出ないです。とにかくやってみないと。若い人がね、そんなに経験がないのに考えてもダメだと思います。とにかくやってみてほしいですね。#自分でやってみたいこともあるだろうけど、人が薦めてくれることもあると思うんですよね。僕もラリーを始めたのは友達が誘ってくれたからでね、そうじゃなかったら全く普通のサラリーマンになっていたと思いますよ。パソコンの画面だけを眺めてこれ面白いなあとか面白くないなあとか判断しているようじゃだめだと思いますよ。やっぱり人との会話の中で薦められることが大事だと思うんですね。パソコンで見てというのは自分の今までの経験内での判断になっちゃいますよね。着る物もそうじゃないですか。自分が選ぶと同じパターンばっかりになっちゃって、ブルーが好きだとブルーばっかりになって、しかもそれが似合っているか自分じゃ分からないわけじゃないですか。誰かがグレーを薦めてきて、それ着てたら他の人にカッコイイじゃないなんて言われて、なんだグレーが似合うのかなんてね、他のことでもいっぱいあると思うんですよね。そういうチャンスをいっぱい作ったほうがいいと思いますよね、若いころは。せっかくこの世に生まれてきたんだからいろいろなことやってみて、それで好きなことが見つかったらいいと思うんですよね。好きなことってなかなか見つからない、何が好きってよく分からないんですよね。これだけ情報が溢れていると、迷っちゃって好きなことが分からないというのが正直なところだと思うんです。それと、自分が得意なことも見つけて欲しいなと思うんですよね。これもやってみないと分からないんですよね。


丹下:得意な分野で勝負しないと勝てない。活きないですよね自分が。

篠塚:好きなことと得意なことを見つける努力をして欲しいですね。努力っていうのは、そういう場に飛び込んでいくっていうことですよね。いつも同じ場にいるんじゃなくて、どんどんいろいろな所に行って欲しいですね。


アスリート兼プロモーター、パジェロを売りたかった


丹下:パリ・ダカに何年間かずっと出られていたのは自分の意思で出ていたのですか?それとも会社からの指示ですか?

篠塚:自分の意思ですね。三菱では、走ってそれを販促につなげていくっていうのが自分の仕事みたいになっていました。で、僕は3つ部を兼務していたんですよ。海外の販売促進を考える海外企画部っていうところと、国内の広報部と、自動車営業部っていうところで3つ椅子があって、どこにもいないぞみたいな。笑。

丹下:面白いですね。笑。自分がアスリート兼プロモーターみたいなイメージですね?

篠塚:そうなんですよ。だから、サファリラリーに出たいなんて時は自分で、企画書を書くんです。自分で出ることを考えて、プロモーションも考えて、どうマスコミに出るかとか全部自分で考えるんですよね。それはすごく面白かったですね。
篠塚:サラリーマンだったからできたのかなと思います。これが本当のプロドライバーだったら、今度パリ・ダカいってらっしゃいとかいう感じだと思うんですよ。


日本でモータースポーツを根付かせる
    ~日本と海外、車文化の違い~


丹下:ラリーって日本より海外のほうが圧倒的に知名度が高いんでしょうか?

篠塚:車が文化として根付いているっていうか、車が生活の中にしっかり入っていってるという意味では、アメリカ、ヨーロッパはすごいですね。日本は、皆さん車に乗ってますけど、車を楽しむっていうまではまだいってないですよね。欧米では移動の手段というよりもせっかく車があるんだから、競争して楽しもうかっていう文化が定着してるのかなって思いますね。例えば、ル・マン24時間とかね、50、60、70代の人が見に来るんですよね。息子や孫を連れて家族で来るっていう文化はしっかりありますよね。

丹下:バイクが好きでモトGPとか見てたんですけど、あんまり日本では有名じゃないですよね。

篠塚:日本はねマスコミの自主規制があるんですよ。だから、あんまりテレビでバイクを映さないんです。バイクのCMってないでしょ。あれって、メーカーどうしの申し合わせでしないことになっているんです。それは暴走族と結びつくからっていう単純な理由なんですけど。で、例えば、チャンピオンのバレンチノ・ロッシってイタリア人がいるんですけど、ヨーロッパじゃスーパースターですからね。
篠塚:でも、日本でバイクのレーサーなんて誰も知らないでしょ。文化が全然違いますよね。日本だと、車っていうと危ないってイメージだったりして。

丹下:そういったモータースポーツの文化を汲むと、篠塚さんの場合、日本よりも海外の方が有名だと思うんです。そんなラリードライバー篠塚建次郎の夢というとなにになりますでしょうか?

篠塚:日本で少しでも、車を使ったスポーツがポピュラーになればいいなという思いがあります。さきほどの「車=危険」という意識はこれから何年もかかるでしょうけど少しずつ変わっていくと思っています。車がないと生活できないわけだし、車と共にっていう考え方にしていけたらなと。僕みたいな60のじいさんと若者が勝負したって勝負できるんですよ、車というスポーツは。(こういうことができるのは)他にないでしょ。だから、すこしずつ、モータースポーツっていうのも見直されていくと思うんです。年取ってからやるスポーツとしては悪くないと思いますよ。そういう意味で、僕が走ることで、文化の変化に貢献していけたらいいなと思います。

丹下:これからも走っていくおつもりですか?

篠塚:そうですね。生涯現役くらいのつもりで。あと10年くらいやってやろうかなんて思っています。実は現在、東海大学の学生さん達とあるプロジェクトをしています。
東海大学にチャレンジセンターっていうのがあって、学生が何人か集まってこんなのやりたいっていうのを学校が認めてくれれば、1年間の予算を付けてくれるんです。で、1年やって成果が上がれば続けさせてくれるっていうシステムなんですよ。

東海大学チャレンジセンター参考URL
(http://deka.challe.u-tokai.ac.jp/lp/topics/topics.html#30)


篠塚:その中のひとつに、ソーラーカーのプロジェクトがあるんです。僕もドライバーとしてなにか協力できないかと思いまして、参加させてもらっています。
他には、「走れオヤジ!プロジェクト」というプロジェクトが僕を応援してくれているので。そういった皆さんの応援にはできるだけ応えていきたいですね。
「走れオヤジ!プロジェクト」参考URL
(http://www.hashireoyaji.jp)

丹下:いいですね。本当に応援しています!今日はありがとうございました。

篠塚:こちらこそ、ありがとうございました。

(編集部注:2008.10.8アフリカ大陸ではじめて開催されたソーラーレース「南アフリカ・ソーラー・チャレンジ」で篠塚建次郎/東海大学チームはみごと総合優勝を果たした)




篠塚さんは、私の父と同世代だが、取材中の篠塚さんは明らかに少年のような目をしていた。オヤジという呼び名がこれほど似合う人はいない。オイルショックでラリードライバーとして重要な8年間をサラリーマンとして過ごした悲運の人生。でもあっさりと、サラリーマンとしての人生も楽しかったと振り返っていた。そして、3度の大けがを負いながらも、会社の為にパリ・ダカを走った。私を含め、情報過多、与えられた成熟化社会で育った私と同世代の人に、篠塚さんの生き様を見て欲しい。正直本当にそう思った。

 そんな篠塚さんの息子さんも私と同世代。オヤジを見て育った彼の詩がある。

『小さい頃、走るオヤジが好きだった。

走りつづけるオヤジが自慢だった。

オヤジは速かった。オヤジの背中は大きかった。

中学受験を三日後に控えた日、大ケガをしたオヤジが帰国した。

身動きもできず、激痛にうめいていた。

160キロのスピードで砂の壁に激突したという。

バカだと思った。この大事なときにと思った。オレは自分の事で一杯一杯だった。

ところが、走ることしか頭にないオヤジは、走りたい一心で驚異的に回復し、
復帰第一戦で優勝してみせた。

オヤジは凄かった。オヤジはバケモノだと思った。

家ではあきれるほど間が抜けている。

情けないほど的が外れる。

カッコ良さなどカケラもないただのオヤジだ。

そんなオヤジがハンドルを握ると変身する。

高校進学の年、オヤジは再び大ケガをした。

この事故は、オヤジの環境も状況も立場も大きく変えた。

外では不死身といわれていたが、
肩を落とし、ため息をつくオヤジが家にはいた。

不安と迷いがオヤジの背中にはあふれていた。

見たくない背中だった。オヤジがキライになった。

だが、オヤジは強かった。走ることをあきらめなかった。

頑張る背中には、走りつづけてきた人生の勲章が光っていた。

その背中にオレは思う。

特別なことはしなくていい。一番を目指さなくていい。

疲れたら休みながらマイペースで夢に向かって走りつづけてほしい。

いつの間にか、オレはオヤジの背丈を越えた。

体力も気力もやがてはオヤジを抜くだろう。

いつかは、オヤジとソックリな背中になるのだろう。

だからこそ、オヤジ!男の背中を見せてくれ。
走れオヤジ!!

走りたいだけ
走りつづければいい

~篠塚建太 ~


こんなカッコいいオヤジが、平成の今いるだろうか。