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株式会社ジースタイラス

就職活動は売り手市場?
 ベンチャー企業希望の学生ならほとんどが知っている『逆求人フェスティバル』。通常、求人イベントというとブースには企業が構えており、学生が訪問する…というスタイルですが、逆求人フェスティバルは全く逆で、立ち並ぶブースには学生が1人ずつ構えています。当然ブースに立つのはモチベーションの非常に高い学生。ベンチャー企業にとってはまさに願ったり叶ったりのイベントです。それを企画・運営する折阪社長に会いに行った。バリバリの営業マンを想像したが、物腰の柔らかな社長がそこにいた。
 

アメリカ留学で人生の分岐点に

丹下:早速ですが、会社としての夢をお聞かせ願えますか。

折阪:漠然としていますが、日本初のビジネスを作りたいというのがあります。それと、海外に進出を果たしたいですね。

丹下:人材を扱われていて、新卒採用もやられている会社で、海外に進出したいというのは初めて聞きましたが、視点が違うのでしょうか。折阪さんの幼少期のお話を聞かせて頂けますか?

折阪:はい。生まれは和歌山です。父親が公務員でしたから、保守的な家庭でした。小さい頃は、お調子者で、根暗でもある両極端な面を持った子どもでした。勉強もスポーツも優等生ではなかったので、それがコンプレックスでした。そして、高校は地元の普通科に入学しました。そこでさらに自信を無くしてしまいました。そんな時、高校の先生が心配して留学でもしなさいということになって、高校2年からアメリカのミシガン州に留学しました。自己逃避ですよ。でもこれが一つのターニングポイントになりましたね。

丹下:コンプレックスは人を成長させますからね。私も兄が神童と呼ばれていて、自分に才能が無い事にコンプレックスを感じていました。

折阪:日本にいたころは、格好が良いか、スポーツが出来るか、頭が良いかのどれかに入っていなければ認められないと思っていましたから。アメリカに行って本当に価値観が変わりました。個性を認めてくれるという概念です。そして、留学生同士で集まる際に、色々な国の留学生が来るのですが、日本人は、日本人だけで集まってしまうことが多かったですね。そういう状況の中、日本人である事にコンプレックスを強く持つようになりました。
★ Dreamerのプロフィール
出身地 和歌山県
生年月日 1976年10月8日
学歴 東京外国語大学卒
略歴 株式会社リクルート卒
趣味 最近の趣味はJR全線制覇と温泉旅行。
健康志向になり、チャリ通勤とマラソン始めました(笑)
その他 20代は目標に燃えた10年。30代は人のために燃える10年にしたい。

☆ 会社概要
企業理念 一人ひとりの「個性」を大切にした組織を目指しています!
社名 株式会社ジースタイラス
代表者 折阪 佳紀
設立 2004年9月13日
住所 東京都千代田区神田司町2丁目21番10号冨士神田ビル3F
TEL 03-6672-5098
FAX 03-6674-8048
URL http://www.gstylus.co.jp/


丹下:留学した日本人の方から良く聞くお話ですね。

折阪:アメリカだけでなく、ドイツ、ブラジルなど、少し皮肉っぽく日本人はこうだよねというふうに言われることがありまして、そこから見返してやりたいという気持ちが生まれました。

丹下:日本人の弱みを客観的に気づく事ができたんですね。

折阪:そうです。見返したいという思いと、また留学を経験したことによって自分は日本人ではないんだという思いの両方の気持ちを持っていました。そういう意味では、戻ってきてからも海外が好きなこともあり、移り住みたいですとか、あちらの大学に通いたいという気持ちがありました。


外交官志望から起業家へ

折阪:大学で東京に来てからは、外交官になりたいと考えていました。ただ、色々な方々とお会いできる機会がありまして、将来の方向性を考えたときに、選択として起業家というのもありだなと思ったんです。
丹下:外交官から起業家ですね。凄い方向転換ですが、何かきっかけがあったんですか?

折阪:大学時代に、ピースボードという船に乗り、世界中を旅しました。そこで知り合った仲間と、みんなで日本を変えようと学生団体を作りました。ピースボートには幅広く2,3歳から70歳ぐらいまでの人達が乗船しており、700人ぐらいはいました。1998年から1999年にかけて乗りましたが、2000年に地球が滅びるという予言があったので死ぬ前にという理由で乗ってくる人も多かったようです。

丹下:あの有名なピースボートですね。

折阪:はい。その学生団体ですが、日本を変えようという想いで、まずは自分たちが元気になろうという思いで活動を始めました。メンバーは30人ほどで、船に乗ってすぐにその団体を作りました。行く先々では観光が主でしたが、団体の活動のために各国の大学へ行き交流したりですとか、アンケートを取ったりしました。


何かを成し遂げたい。それが逆求人フェスティバル

丹下:その頃には独立しようと、考えていらしたのですか?

折阪:ピースボートを降りて大学4年生の頃、逆求人フェスティバルを行う団体を作りました。人が成し遂げられないような事をやりたい、ただそれだけでした。月数万円の家賃のオフィスを一人で借りていました。社長さんの交流会に参加をしたりですとか、様々な方々に話を聞いて頂いたり、事業計画書の作成をしたり、その中で出てきたものが、逆求人フェスティバルでした。

丹下:別に人材系の事業でなくても良かったということですか?
折阪:そうですね。ただ、人材系に絞った理由としては、自分の将来の事を考えていた時期だったというのが1番大きいと思います。就職氷河期で、周りも就職活動に困っている状態でした。企業も学生も、お互いのことをゆっくり知っていこうというのが逆求人の趣旨でもあります。というのは氷河期の時には流れ作業のように面接もどんどん終わるという現状がありましたので、そこを変えていきたいという想いがありました。

丹下:逆求人は不況の時のほうがミートするのではと思います。学生は本気で自分をアピールしたいという思いがあるので、見てもらう場としては最高ですし、練習にもなりますよね。当時からイベントはやられていたのですか?

折阪:大学5年生の時に1回目をやりまして、学生は知り合いをベースに集めました。企業側は初めての試みだったということもあり、お金を出すというところまで至りませんでした。営業自体は今と変わらないですが、無料でのスタートでアポ取りから始めました。最初は一人で行っていました。当時はターゲティングするのに、リクナビなど載っている会社に電話をかけてNTTドコモさん、三井住友さん、オラクルさんですとか、大変有難いことに大手の企業さんのほうが参加してくださいました。企画として面白いということでご参加いただけたみたいです。


学生時代に200万円の借金を背負う

丹下:凄いですね。学生でそこまで営業をするなんて、なかなか出来ません。

折阪:でも、最初は大きな失敗もしました。お客様が確定していないにも関わらず、NSビルを会場として借りました。要するにお金をかけてしまった訳です。NSビルは100万円ぐらいの出費でした。あとは装飾代というのがもっとかかりまして、レンタルなのですが、150万円ぐらいしました。ポスターを作製する際には無駄にA1の大きいサイズをカラーでお願いしたので、それが40万円ぐらいでした。全部で350万円もの費用をかけ行いました。
丹下:えっ、学生でその資金をイベントに投資したんですか?

折阪:はい。その時は回収できるのではと思っていたんです。もとは資金ゼロの状態で、お金は開催後に支払うという交渉をしていたのですが、1社10万円で35社はすぐだろうという考えがありました。ところが10社ぐらいは集まるのですが、そこからが増えないんですね。構想時には5,6人の仲間がいましたが、日にちが近づくにつれ険悪なムードになり、結局、開催1週間前にはバラバラになってしまいました。

丹下:創業時の切ないエピソードですね。

折阪:はい。その時に残った1名と必死になってやり、もう7社集めましたが、200万円弱は借金になってしまいました。学生ローンで50万ずつ借りることはできましたが、当時は毎日のようにそれが夢に出てきました。

丹下:そうですよね。創業間もない時には、夜も眠れない日が続きますよね、笑。

折阪:それで、一端は自分自身の就職活動をし始めました。当時、営業させていただいた会社の社長さんにはリクルート出身の方が多く、面白い会社だと思っていましたので、リクルートに就職しました。

丹下:リクルートですか。優秀な方が多いですよね。

折阪:リクルートには、2年3ヶ月勤めましたが、その間も起業することを考えていました。色々なビジネスモデルを考えるというより、1回やり始めた逆求人を1度成功はさせたいという想いがありました。リクルート社員の1年目からサイトの構築を始め、サラリーマンをやりつつも、年に1,2回はイベントを行っていました。学生に関しては知り合いにお願いして、営業は土日にメールを送るというスタイルで行いました。
リクルートからまた起業家へ

丹下:本当に志が高いですね。自分の夢を忘れられなかったという事ですね。

折阪:その後、学生時代の仲間と足並みを揃えて退職し、一緒に会社を作りました。社会人になってから知り合った1名を加え3人資本金を持ち寄って始めました。半年ぐらいは低迷が続きました。4ヶ月の間に、最高でも売り上げがあったのは50万円ぐらいでした。危機感を感じてはいましたが、やれることは営業しかないという状態でした。外へ行っている時にも少しの合間を使い、電話ボックスからかけたりしていました。

丹下:学生時代のトラウマがあるので、排水の陣ですね。

折阪:地道ではありましたが、営業を重ねた結果、月50万円だったものが一気に700万円の売り上げになりました。やっていることは一緒だったのですが、気持ちの問題だと大いに実感をしました。生みの苦しみはありますし、今も苦労は絶えないですが、その時ほどにはならないですね。

丹下:何かを成し遂げる少し前は、本当に真っ暗なトンネルを進んでいるという感覚ですよね。それから順調に逆求人フェスティバルは伸びていますよね。今後の展開はお考えですか?

折阪:2008年の7月からは5期目になりますが、次は全国展開を目指します。翌年には大阪、福岡あたりに支社を出したいと考えています。その後はやはり海外進出をしたいですね。


日本人という誇りを持った人材を育成したい

丹下:ビジョンが明確ですね。

折阪:はい。自分達として誇りを持って、生きたいというのがあります。例えば日本人としての誇りですとか、今働いていることに対しての誇りですとか。
日本人はどこの会社に勤めているということに対して、変に所属意識が強いわりには、そこに対しての誇りがないと感じています。そういう誇りを持つことのできる人材を作っていきたいと思っています。



丹下:なるほど、ここで冒頭の日本人コンプレックスと繋がるんですね。

折阪:そうですね。海外の人々にも評価されたいという気持ちがあります。やはり留学時に感じたものがきっかけとなっています。

丹下:個人的にはどのような夢をお持ちですか?

折阪:個人の夢としては、いずれは教師をやりたいという気持ちがあります。海外留学を紹介してくれたのも先生でしたし、小中高と通して学校の先生からの影響というのは非常に大きいと思っています。もうだいぶ前から、世の中に良い影響力を、良いきっかけを与えられる大人になりたいというのが根本にあることから、その夢があります。

丹下:私も父が高校の教諭をしていましたが、生徒に愛される素晴らしい先生だったようです。そういう初等教育の先生としての影響力は大きいですものね。今日は取材ありがとうございました。

折阪:こちらこそ、ありがとうございました。



 とにかく営業が上手な社長さんです。かく言う弊社もクライアントの一つですが、折阪社長の営業、いや、人格には非常に学ぶことが多いです。私はもともと営業をした事がないため、兄貴のように慕わせて頂いております。一度、どん底を知った社長ほど、強いものは無いですね。創業当時のエピソードには、ひたすら共感することが多く、お酒も飲んでいないのに、大盛り上がりの取材でした。海外の生活を経験されると必ずと言って良いほど、日本人としてのコンプレックスを感じるようです。私も海外からリスペクトされるような事業を折阪さんと興して行ければと思いました。